「考える解剖学」

千葉大学医学部講師 河野俊彦先生
 解剖学はヒトの体の構造を学ぶ形態学である。身体の器官はそれぞれ異なる形をしているが、形の違いは機能の違いを示している。心臓には心臓の形、脊柱には脊柱の形があって、その形でなければその器官の機能が果たせないと言える。解剖実習では体内構造を立体的に観察して、生理的作用を考えながら解剖しなければならない。形が壊れていれば病気であり、病理的に考えることになる。病は治療によって形が元に戻れば、治癒したと言えるだろう。
 解剖見学はヒトの内部構造を実際に手に触れて形を実感しながら、考える解剖学をすることにある。また、解剖体は故人の尊い遺志により献体されたものであり、身をさらしての無言の教えに感謝の心を忘れてはならない。
 解剖実習は形を学ぶばかりでなく、命に向き合い、ヒトの心に思いをいたすものであると思う。知ることは感動であり、感動と共に学んだことは忘れることが出来ないであろう。

「頚部の神経叢の相関について」

 頚神経叢からは横隔神経(C3~5)が出るが、この神経は横隔膜を支配すると同時に迷走神経や交感神経と共に胸膜枝と心膜枝を分枝する。
 腕神経叢については前斜角筋と中斜角筋の間から第5~8頚神経と第1胸神経が派生して、上肢帯から上肢に分枝している状態をみる。腕神経叢は最も発達した神経叢であり、それ故にヒトの手指は絶妙なバランスをもって働くことができる。
 頚部の交感神経は上頚神経節が第3頚椎の部位にある。また、下頚神経節は第1胸神経節と合して星状神経節となり、第7頚椎の部位に位置している。上頚神経節からは心臓に多くの神経線維を派生している。また、同時に目や顔面の腺なども支配し、主に動眼神経などに含まれる副交感神経と拮抗的に働いている。
 迷走神経は内頚静脈と総頚動脈の間を下行し、頚動脈小体や頭頚部の器官に分布し、反回神経を形成している。またさらに下行して、胸部・腹部臓器まで広く分布している。
 このように頚部から腹部や上肢帯に分布する頚神経叢、腕神経叢と自律神経は、数ヵ所で神経根を同一の部位に置いていることが分かる。
 横隔神経はC5で腕神経叢と重なっている。また、横隔神経には心膜への自律神経が含まれているので、心臓の不調は腕神経叢中の知覚神経に異常を訴えるのではないかと考えられる。それ故に心臓の異常は肩部や上腕部に関連痛を引きおこすのであろう。心筋梗塞などの際には、胸部や心臓そのものが激しく痛むことを考えると肩部や上腕部の痛みの時は軽度の心臓障害を知らせているのであろう。
 頚部の痛み、特にC3あたりの痛みや頚椎の歪みは血圧を高めるばかりでなく、ほとんどの症状として目のかすみ、視力低下を訴える。上頚神経節からは瞳孔や心臓、呼吸器にも神経を送っているので、これも当然の影響であろう。
 頚部、上肢帯にかけての筋は複雑に重なり、関節の構造も特殊である。バランスの取れた構造と機能が維持されなければ、障害も生じやすいことが理解できよう。他の部位においても、このような問題意識をもって観察すれば、筋や神経や臓器の相関がみえて来よう。

「腹式呼吸は健康に良い」

 横隔膜に吊り下げられている肝臓は、呼吸運動のためにはかえってじゃまであると言える。重い肝臓(約1200g)を固定するには、べったりと横隔膜に張りつけたいところだが、肝冠状間膜や三角間膜など極めて限られた狭い部分でしか固定していない。横隔膜に広く固定すれば、当然横隔膜の伸び縮みが出来にくくなり、呼吸運動に役立たなくなるからである。しかし腹部臓器にとっては、横隔膜に肝臓を取り付けることが必要であった。そこで肝鎌状間膜の中を通る臍静脈を利用して、肝臓の下面からしっかりと吊り上げる形で、横隔膜に固定している。胎児期には胎盤からの動脈血を肝臓の背面を通る下大静脈に連結する静脈管だが、生後は不要となる。この丈夫な静脈管を再利用したヒモが肝円索である。
 呼吸の度に肝臓が腸管を押しつぶすことによって、腸で栄養素を吸収した静脈血を心臓に押し上げることができる。呼気運動の方が大事な呼吸にとって、横隔膜に肝臓を固定することは良くないが、腸を助けることの方がもっと重要だったのだ。
 しかしこれだけでは十分ではない。消化管の運動を助けるためには、横紋筋である腹筋の働きかけが必要である。そこで肋骨までも取り外してしまったのだ。肋骨があると力強い腹筋が腸管に働きかけることが出来ないからである。

「臍を出して寝ると寝冷えする」

 腹筋は内臓のための筋であり、特定の関節を動かすための筋ではない。腹直筋と3層の脇腹の筋は、内臓を保護すると同時に腹圧を高め、消化管の生理的運動を補助するための作用を果たしている。排尿、排便や分娩あるいは嘔吐の際には、腹筋の働きが不可欠である。中でも真正面にある腹直筋は内臓にとって最も主要な筋で、十分に活用すべきである。  腹直筋は胸骨・肋骨から恥骨までの長い筋だが、筋腹は腱画によって4~5個に区切られている。腱画は腱と同様ほとんど伸縮しないので、筋腹が収縮することによって、そこに位置する胃や腸の働きを助けることになる。長いままの筋では、収縮するのにエネルギーを大量に消費するし、臓器に効率よく力を集中しにくくする。
 腹直筋はまた、臍を境に左右2本走行しているが、それぞれ厚い鞘(腹直筋鞘)に前後を包まれている。左右の筋鞘は正中部で癒合して、白線を成している。このため正中部には筋肉がないので、腹壁の厚さは膜だけである。それ故、「臍を出して寝ると寝冷えする」と言われているのだ。臍の部分には筋肉の厚みがないので、外気温が直接内臓を冷やすため、腸の運動も不調になりやすいからであろう。裸の男の子:金太郎が腹がけをしているのは、そのために違いない。
 腹直筋鞘には脇腹の筋:外腹斜筋、内腹斜筋、腹横筋が付着している。腹直筋鞘が厚い膜状であるのは肋骨がないので、筋の力の入れ具合が分かりにくいのを防ぐためと考えられる。それぞれの筋肉を包む筋膜は、筋が収縮して働けば筋膜の緊張が増し、情報網としての役割も果たしているといえよう。
 また腹直筋鞘の後葉(腹壁の内臓側)は臍の3~4cm下から薄い筋膜に変わっている。下腹部には直腸があり、排便には当然うんと‘いきむ’ことによって短時間ですませる必要がある。腹直筋鞘の前葉(腹壁の皮膚側)が厚く後葉が薄ければ、筋腹は直腸側に膨らみ、腹圧をかけて便を押し出しやすくしているのだ。
 命をつなぐために最も大切なものは小腸と生殖器官であることを考えると、腹筋は内臓のために活用すべきであると思う。

「直立歩行のための腹直筋」

 腹直筋は直立歩行をするヒトにおいては、もう一つの役割が課せられたと言えよう。それは脊柱起立筋の補助を果たして、直立姿勢を保つことである。脊柱に張り付いて直立を保つ脊柱起立筋は前方に彎曲している腰椎部にとっては、腰椎を後方に引き出すように働いてしまうことになる。
 脊柱起立筋は腰椎に集中して着いているため十分に筋力を発揮しにくいが、腹直筋は背骨から離れた位置にあるので、胸骨を経て脊柱のつっかい棒のように働き、直立姿勢を助けることができる。ヒトだけがこの働きを必要としているので、もっと腹直筋の働きを習慣づけなければならないと言えよう。腹直筋の働きを高めるためには、腹筋に力を入れた早歩きをすることである。

「腎臓と脊柱の生理的彎曲」

 内臓にとって直立姿勢は良い環境とは言えない。腹筋は腹部臓器の位置を保持する役割を果たし、横隔膜に付く肝臓は静脈血の循環を助けている。しかし、腎臓はどうであろうか。
 腎臓は尿の生成に心臓の働きが不可欠で、原尿は腎糸球体の細動脈から血圧によって濾出している。心腎は一体で、動脈血から180リットルもの原尿を心臓のポンプ力で濾出し、腎臓はその99%以上を再吸収する役割を果たしている。つまり血圧によって、体内の水分の出し入れを調節しているので、2つの腎臓の重さと心臓の重さ(約300g)はほぼ同じである。
 肝臓は腹部内臓のために横隔膜の上下動を利用しているが、腎臓にとっては逆に良いとは言えない。それ故に腎臓は2個のままで、扁平にして脊柱よりも後方の背中に張りつけている。肝臓に押しつぶされて、心臓のポンプ力が減弱してしまわないためである。まさに、壁際に張り付いて、肝臓の上下動に潰されないように回避しているのだ。
 腎臓は背部の腹膜の後ろに脂肪被膜によって固定されている。また第12胸椎から第3腰椎までの背骨の両脇に位置している。腰椎は第3腰椎が一般に最も前方に彎曲しているので、その上部に張り付いていることになる。腎臓の腎門には腎動静脈や尿管が出入りしているが、上方を固定する構造物は何も無い。そのため脂肪が少ないと腎臓はずり落ちて、遊走腎になってしまう。
 腰が曲がって前かがみの姿勢になると、腎臓は滑り落ちそうになるだろう。臓器は定位置をずれると機能が落ちる。腎臓がずれ落ちそうになれば、自律神経もストレスを生じ、心臓も微妙に乱れ、ひいては、太陽神経叢から腹部内臓へも影響が及ぶことになる。
 腎臓は肝腎の腎、腰椎は体の要である。腰椎の前方への弯曲は、正しい姿勢保持(S字状生理的彎曲)が大切であると言えよう。腰椎の後方へのずれを防いで、前方へ引いてくれるのは大腰筋である。大腰筋は第1~4腰椎に起始し、恥骨の前を乗り越えて、大腿骨の後方の小転子に着いている。この筋が働けば、腰椎は前突が保持され、直立姿勢が正常に保たれることになる。
 また、大腰筋が発達していれば、腎臓の下支えの役目も果たしてくれる。大腰筋を丈夫にするためには、歩くことが最もよい。大腿を後ろに引けば引くほど、大腰筋は腰椎を前方に引くことになる。脊柱起立筋が後方に引き出すように作用しているのに対して、大腰筋が前方に引いてくれている。歩くときにはやや大股で、腕は大きく振って、少し早歩きがよいだろう。
 脊柱の生理的彎曲が正しく保たれることは、足腰への負担は軽減し、ひいては腎臓をはじめ内臓諸器官の働きを正常に保ち、まさに健康そのものを保つことになるであろう。